2025年プロ野球ドラフト会議で、千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けた健大高崎高校の石垣元気(いしがき げんき)選手。
最速158キロの速球を投げる右腕として注目を集めてきました。
北海道・登別出身の石垣選手は、小学生の頃から野球一筋。
地元の少年野球チームで始めた野球は、中学時代には北海道選抜に選ばれるほどの実力を見せ、そして全国屈指の強豪・健大高崎高校へと進学しました。
今回は、そんな石垣元気選手のプロフィールや学歴、チームメイトとの関係、そして彼の人柄やエピソードを中心にまとめました。
ドラフトでの1位指名につながった努力と成長の軌跡を見てみましょう。
石垣元気(いしがき げんき)選手のプロフィール
ロッテからドラフト1位指名を受けた、石垣元気(いしがき げんき)選手。
高校野球ファンの間では、早くから注目されていた実力派投手です。
名前:石垣 元気(いしがき げんき)
生年月日:2007年8月16日(17歳・2025年現在)
出身地:北海道登別市
身長・体重:178cm/78kg
利き腕・打席:右投げ両打ち
ポジション:投手
石垣元気選手は、登別市立幌別西小学校で軟式野球を始め、西陵中学校時代は「洞爺湖シニア」に所属して経験を積みました。
高校は、全国屈指の強豪・群馬県の健大高崎高等学校に進学。
全国から集まる実力者の中でも頭角を現し、プロからも注目される存在に成長しました。
石垣元気選手の家族構成と支え合う絆
ロッテからドラフト1位指名を受けた石垣元気(いしがき げんき)選手。
その活躍の裏には、幼少期から支えてきた家族の存在があります。
ここでは、石垣元気選手の家族構成や、父・母との心温まるエピソードを紹介します。
父親・石垣和人(いしがき かずと)さん
生年月日:1979年3月19日(2025年時点で46歳)
石垣元気選手の“最初の野球コーチ”であり、最大の理解者。
学生時代に野球経験があり、その知識を生かして息子に基礎から丁寧に指導してきました。
登別市の自宅近くで、小学1年の頃から毎日キャッチボールを欠かさなかったというエピソードもあります。
厳しくも愛情深い指導
父・和人さんの指導は、厳しさと愛情が共存するスタイル。
「ふざけた気持ちで野球をするな」と常に真剣勝負を求め、中学時代に元気選手がチームメイトにいたずらをした際は、「もうやめてしまえ!」と叱責したほどでした。
しかし、翌朝息子が**涙を流して「野球を続けたい」**と訴えた姿を見て、その本気の覚悟を受け止め、再び支える決意を固めました。
この出来事が、石垣元気選手の野球人生の大きな転機となったといわれています。
父への最高のプレゼント
2025年春のセンバツ甲子園初戦で勝利したのは、奇しくも父・和人さんの45歳の誕生日。
試合後、元気選手は「最高のプレゼントをあげられた」と語り、父への感謝と強い絆を感じさせました。
父の教え
和人さんが息子に贈った言葉は、「結果よりも継続を大切にしろ」。
この言葉が、石垣元気選手の粘り強さや精神力の根底にあります。
母親・石垣美樹(いしがき みき)さん
年齢:45〜46歳(2025年時点)
母・美樹さんは、石垣元気選手の“応援団長”として知られています。
群馬県の健大高崎高校に進学してからも、北海道から何度も足を運び、試合のたびにスタンドで声援を送り続けています。
「元気」という名前に込められた思い
予定日を2週間過ぎても生まれなかったため、「元気に生まれてきてほしい」という願いを込めて名付けたのが「元気」という名前。
生まれたときは肩幅が広く、なかなか出てこなかったというエピソードもあります。
名前の由来そのものが、母の愛情を象徴しています。
遠くからのサポートと母の思い
健大高崎高校への進学には、当初「できれば北海道に残ってほしい」と悩んだ美樹さん。
しかし息子の強い意志を尊重し、送り出しました。
遠方で頑張る息子を思い、帰省のたびに好物の鮭料理や野菜スープを用意し、「体を大切にね」と声をかけるなど、温かいサポートを続けています。
母も厳しく、でも一番の味方
中学時代、いたずらをしてチームに迷惑をかけたときは、母・美樹さんも激怒し、コーチに「辞めます」と電話したほど。
その厳しさの裏には、「本気で向き合ってほしい」という母の願いがありました。
以降は“最強の応援隊長”として、技術面ではなく精神面と健康面で息子を支えています。
兄弟について
石垣元気選手は一人っ子で、家族は父・母との3人家族です。
一部では「妹の結菜(ゆいな)さんがいる」との情報もありますが、公式な報道や公的な情報はなく、確定的ではありません。
また、同じ健大高崎高校に在籍する「石垣聡志」選手と混同されることもありますが、聡志選手は東京都出身・沖縄育ちで、血縁関係はありません。
出身地・家族構成・プロフィールのすべてが異なるため、石垣元気選手とは無関係であるとされています。
石垣元気選手の学歴と野球経歴|やんちゃ少年が全国の舞台へ
北海道登別市で生まれ育った石垣元気選手。
地元の少年野球から始まり、全国屈指の強豪・健大高崎高校で磨かれたその才能は、2025年ドラフトでのロッテ1位指名につながりました。
ここでは、石垣選手の学歴と野球の歩み、そしてチームメイトとの絆を紹介します。
小学校時代|「柏木ジュニアーズ」で野球人生がスタート
出身は北海道登別市立幌別西小学校。
小学1年生の時、地元の少年野球チーム「柏木ジュニアーズ」に入団して野球を始めました。
最初にキャッチボールを教えたのは父・和人さん。
ここで「毎日練習する大切さ」を学び、基礎体力と野球への情熱が芽生えました。
当時から負けず嫌いな性格で、チーム内でも一際目立つ存在。
練習後も「もう一回投げたい!」と言って居残り練習をするほど野球に夢中だったそうです。
中学時代|「洞爺湖シニア」で北海道選抜に選出
中学は登別市立西陵中学校に通い、部活動ではなく**硬式野球チーム「洞爺湖シニア」**に所属。
早くから全国を意識した舞台で実力を磨きました。
中学時代には、チームでのいたずらが原因で何度も監督に叱られる“やんちゃな少年”でもありましたが、一方でプレーにかける情熱と才能はチーム内でも突出。
最速130km/h台の速球で北海道選抜メンバーにも選出され、頭角を現します。
野球を辞めかけた時期もありましたが、父とのキャッチボールが支えとなり、「もう一度本気で頑張る」と決意。
この時の経験が、彼の野球人生の原点となっています。
高校時代|健大高崎高校で全国優勝!最速158キロのエースへ
高校は群馬県の強豪、健大高崎高等学校へ進学。
北海道から遠く離れた地で、親元を離れての挑戦でした。
1年春からベンチ入りし、2年春のセンバツ甲子園では5試合に登板して優勝に貢献。
2年夏の甲子園では背番号1を背負い、堂々のエースとしてマウンドに立ちました。
最速158キロのストレートと多彩な変化球が武器で、プロのスカウトからも注目される存在に。
甲子園での落ち着いたピッチングと表情からは、幼いころの“やんちゃ少年”から成長した精神的な強さが感じられます。
チームメイトとの絆|佐藤龍月選手との“ダブルエース”関係
健大高崎では、同学年の佐藤龍月(さとう りゅうが)選手、下重賢慎(しもしげ けんしん)選手らと共に、“投手王国・健大”を支える柱として活躍しました。
中でも佐藤龍月選手とは、右腕と左腕の“ダブルエース”としてチームをけん引。
佐藤選手はトミー・ジョン手術からの復活を遂げた努力家で、お互いにライバルであり、同時に信頼し合う存在です。
佐藤選手は「どんな時でも気を抜けない存在がそばにいたから、
野球だけでなく私生活も大事にしようと思えた」と語っています。
試合では冷静沈着な石垣選手も、普段は明るくムードメーカー。
チームメイトとの距離も近く、いたずら好きな一面も健在でした。
しかし、その明るさがチームの雰囲気を和ませ、仲間からは「マウンドでは頼れるけど、普段はおちゃめ」と慕われています。
仲間に支えられて成長した3年間
健大高崎で過ごした3年間は、技術面だけでなく精神面でも大きな成長の時期。
ライバルであり仲間でもある佐藤龍月選手との関係、遠くから見守る両親の存在が、石垣元気選手を大きく育てました。
やんちゃだった少年が、努力と仲間の支えで全国制覇を果たし、ついにはプロの舞台へと羽ばたく存在に。
その背景には、チームへの思いや努力を惜しまない姿勢がありました。
【まとめ】
石垣元気選手は、北海道登別から全国の頂点を目指した努力家投手。
小学生の頃からの野球人生は、決して順風満帆ではありませんでしたが、どんなときも明るく前向きに取り組む姿勢でチームから信頼を得てきました。
健大高崎高校では、同級生の佐藤龍月選手とともに左右のエースとしてチームを支え、甲子園優勝を経験。
やんちゃな一面もありながら、仲間思いでチームメイトから愛される存在として、野球技術だけでなく人間的にも大きく成長しました。
そんな石垣元気選手が、ついにロッテからドラフト1位指名を受け、プロの世界へ。
北海道から全国、そしてプロ野球へと続く彼の挑戦は、これからますます注目を集めることでしょう。
今後のロッテでの活躍、そして高卒ルーキーとしてどんなピッチングを見せてくれるのか――期待が高まります。
