朝ドラで再注目!小泉八雲を支えた妻・セツの生涯

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朝ドラ『ばけばけ』で注目を集めるヘブン役。そのモデルとなったのが、日本の怪談文化を世界に広めた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)です。

16歳の事故で左目を失明しながらも、日本文化への深い愛を持ち続けた八雲。

しかし、彼の作品の背景には、もう一人の重要な人物がいました。

それが妻・小泉セツです。この記事では、八雲の創作を支え、彼と共に歩んだセツの生涯をご紹介します。

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小泉セツについて

小泉セツは1868年2月4日、松江藩の上級武士・小泉弥右衛門湊の次女として生まれました。

節分生まれだったため「セツ」と名付けられ、本人は後に「節子」と書くことを好んだそうです。

小泉家は松江藩主・松平家に代々仕えた「三百石取り」の名家でしたが、セツは生後7日で子どものいなかった親族・稲垣家に養女に出されます。

養父母からは「お嬢」と呼ばれ大切に育てられましたが、明治維新後の士族没落で両家とも生活は困窮しました。

小学校を卒業したセツは、機織りや針仕事、奉公などで家計を支える日々を送ります。

若くして最初の結婚をしますが、夫の事業失敗と借金で生活は破綻し、1890年、22歳で離縁して実家に戻りました。

ドラマでは寛一郎さんが演じていました。切ない別れでしたね。

運命の出会い:士族の娘と異国の教師

そんな中、1890年4月、ギリシャ生まれのイギリス人作家・パトリック・ラフカディオ・ハーンが松江の島根県尋常中学校の英語教師として赴任してきます。

貧困や視力障害(16歳の事故で左目を失明)を抱えながらアイルランド、フランス、アメリカを転々としてきた40歳のラフカディオ・ハーンでした。

独り身の彼を支える住み込み女中として紹介されたのが、23歳のセツでした。

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小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)とは

小泉八雲(1850-1904)は、ギリシャのレフカダ島で生まれ、アイルランドやアメリカを経て、1890年(明治23年)に40歳で来日しました。

島根県松江市で英語教師として働く中で、士族の娘・小泉セツと出会い結婚。

1896年に日本に帰化し、「小泉八雲」を名乗るようになりました。

「八雲」という名前は、松江がある出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に由来しています。

日本の怪談を世界に紹介した作家

小泉八雲は、日本の怪談や文化を世界に紹介した作家として知られています。

代表作『怪談』には、「耳なし芳一」「雪女」「むじな」「ろくろ首」など、今でも多くの人に読み継がれている名作が収められています。

来日時、八雲はほとんど日本語を話せませんでしたが、妻セツの献身的なサポートにより、日本各地の民話や伝説を収集。

それらを英語で世界に発信しました。

八雲は日本の伝統文化や精神性を深く愛し、『知られぬ日本の面影』『神国日本』など、日本を紹介する多くの著作を残しました。

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物語が結んだ二人の絆

二人を結びつけたのは、共通の「物語好き」でした。セツは幼い頃から祖父母や周囲の大人たちから昔話、民話、怪談を聞いて育ち、その語りの才能は抜群でした。

一方の八雲も、異国の文化や民間伝承に深い興味を持っていました。

また、二人には「極貧体験」という共通点もありました。

士族没落で貧しさを知ったセツと、幼少期から貧困と孤独に苦しんだ八雲。お互いの痛みを理解し合える関係が、自然と二人を惹かれ合わせたのです。

18歳の年齢差、国際結婚という当時としては異例の組み合わせに、周囲は反対しました。

しかし二人は内縁関係を経て正式に結婚し、根岸家の空き家で新婚生活をスタートさせます。1891年のことでした。

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創作パートナーとしてのセツ

セツの役割は、単なる妻としてだけではありませんでした。彼女は八雲の創作における最も重要なパートナーだったのです。

八雲の代表作『怪談』(1904年)には、「耳なし芳一」「雪女」「むじな」「ろくろ首」など19編の幽霊譚が収められていますが、これらの多くはセツが語り聞かせた民話や怪談が元になっています。

八雲は日本語が十分に読めなかったため、セツが口伝えで物語を伝え、八雲がそれを英語で再話するという共同作業でした。まさに『怪談』は二人の合作と言えるでしょう。

また、セツは資料集めにも奔走しました。

八雲が興味を持つテーマについて、地域の人々から話を聞き、情報を集め、それを八雲に伝える。日本語の通訳役としても、セツは欠かせない存在でした。

『知られぬ日本の面影』(1894年)、『骨董』(1899年)、『影』(1900年)といった随筆作品も、セツの協力なしには生まれなかったでしょう。

八雲の日本文化への深い理解は、セツという文化の架け橋があってこそ実現したものでした。武家社会の作法、言葉、物語文化を深く身につけていたセツだからこそ、八雲に日本の心を伝えることができたのです。

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家族と共に歩んだ人生

二人の間には4人の子どもが生まれました。

長男・一雄(1893年生まれ)は、父の「ラフカディオ」から「一匹の雄」という意味で名付けられました。

次男・巌(1897年生まれ)は、「君が代」の「巌山」、セツの祖父「岩苔」、八雲の故郷レフカダ島の岩から命名されています。

三男・清(1899年生まれ)は「清らかな小泉の水」の意味。

そして長女・寿々子(1903年生まれ)は、八雲が鈴の音を愛したため「すず」と名付けられました。

結婚後、一家は松江から熊本、神戸、そして東京へと移り住みます。

熊本第五高等中学校での教師時代(1891-1894年)、セツは八雲と共に民話採集に励みました。

1896年には八雲が日本に帰化し、「小泉八雲」と名乗ることを決意します。この決断の背景には、セツとの家族生活、そして日本への深い愛情がありました。

八雲は東京帝国大学の講師として日本文化を教え、1897年からは夏の避暑地として焼津を訪れるようになります。

セツと子どもたちと共に過ごす穏やかな時間が、八雲にとってかけがえのないものでした。

突然の別れ、そして遺志を継いで

1904年9月26日、八雲は狭心症により54歳の若さで急逝します。長女・寿々子が生まれてわずか半年後のことでした。

八雲没時、長男・一雄は11歳、次男・巌は7歳、三男・清はまだ5歳でした。

突然夫を失ったセツでしたが、彼女は決して崩れませんでした。

八雲の遺言により全財産を相続したセツは、新宿西大久保の自宅で子どもたちを育てながら、夫の遺稿整理と著作普及に全力を尽くします。

八雲の作品を世に広め、印税で家族を支える日々。それは夫への愛情と、彼の仕事への深い理解があってこそできることでした。

セツは『思ひ出の記』という回想録を執筆し、八雲との生活を書き残しました。長男・一雄も後に『父小泉八雲』(1950年)を出版し、父の姿を伝えています。

晩年のセツは、趣味の謡曲や茶道に親しみながら、夫の好きだったクリーム色の薔薇を霊前に供える穏やかな日常を送りました。

動脈硬化に悩まされ外出が難しくなっても、子どもたちや孫たちに囲まれ、心穏やかに過ごしたといいます。

1932年2月18日、セツは脳溢血により64歳で息を引き取ります。長男一雄夫妻や親友、孫たちに見守られた静かな最期でした。

セツは雑司ヶ谷霊園の八雲の墓の傍らに埋葬され、27年ぶりに愛する夫の隣に戻りました。

まとめ

小泉八雲とセツの結婚は、明治時代の国際結婚として異例の絆を生みました。

18歳の年齢差、文化の違い、言葉の壁。あらゆる困難を乗り越えられたのは、お互いへの深い愛情と尊敬、そして「物語」という共通の情熱があったからです。

セツがいなければ、『怪談』は生まれなかったでしょう。八雲の日本文化への理解も、これほど深いものにはならなかったはずです。

語り部として、通訳者として、そして何より愛する妻として、セツは八雲の人生と創作を支え続けました。

朝ドラ『ばけばけ』でヘブン役のモデルとして注目される小泉八雲。その背景にあるのは、一人の女性の献身と愛情、そして二人が共に紡いだ文化の物語です。

逆境を乗り越え、日本文化を世界に伝えた夫婦の絆は、100年以上経った今も、私たちの心を打つのです。

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