女優・アイドルとして一世を風靡し、女性レーサーとしても活躍。
そして政治家として社会課題に取り組む――三原じゅん子さんは、まさに異色の経歴を歩んできた人物です。
2024年には石破内閣でこども政策担当大臣として入閣し、児童虐待防止や孤独・孤立対策、就職氷河期世代支援などに力を注ぎました。
この記事では、三原じゅん子さんのプロフィール、家族構成、学歴・経歴、結婚歴、そして最新の政治・社会活動までを網羅し、その半生と現在の活動をわかりやすくご紹介します。
三原じゅん子プロフィール
本名: 中根順子(旧姓:三原)
生年月日: 1964年9月13日(東京都板橋区出身)
学歴: 明治大学付属中野高等学校中退
芸能界デビュー: 子役として活動を開始し、1979年のドラマ『3年B組金八先生』で一躍人気に。
その後は歌手としても「セクシーナイト」など多くのヒット曲を発表。
レーシングドライバー: 1980年代後半には女性レーサーとしても活躍し、異色の経歴を持つ。
社会活動: 介護施設の運営経験や、子宮頸がんとの闘病を経て医療福祉政策にも注力。
政治活動: 2010年に参議院議員に初当選。厚生労働副大臣、女性局長などを歴任し、2024年には石破内閣でこども政策担当大臣として初入閣。
子育て支援・医療福祉・少子化対策・女性活躍など、幅広い分野での政策提言が高く評価されています。
三原じゅん子の家族構成
三原じゅん子さんは、東京都板橋区で生まれ育ちました。
家族は父・母・本人の3人家族で、兄弟姉妹はおらず、一人娘として育ちました。
- 父親:東京都板橋区で印刷会社を経営していましたが、後に倒産。経済的困難に陥り、その後は働く意欲を失い、生活は一変したといいます。
- 母親:三原真澄さん。父親の倒産後、夜の仕事をしながら家計を支え、娘を育て上げました。
- 父親は2014年末に他界し、母親は2025年現在もご健在です。父の死後、母は出身地の栃木県に戻ったとされています。
幼少期の三原さんは、借金取りが訪れるなど厳しい家庭環境で育ち、「家に差し押さえの紙が貼られた」「お金がなくても笑顔で生きる母の姿に救われた」と語っています。
このような幼少期の経験が、後の社会的弱者への理解や支援への関心につながったと言われています。
実家と幼少期の暮らし
実家は東京都板橋区内にあり、都心へのアクセスも良い住宅地でしたが、家庭は決して裕福ではなく、父の事業倒産後には借金取りが訪れることもあり、家財に差し押さえの紙が貼られるなど、苦労の多い環境で育ったといいます。
しかし、そうした逆境の中で鍛えられた精神力が、のちの芸能活動や政治活動における「粘り強さ」と「現場主義」につながったとも語られています。
三原じゅん子の学歴|学生時代の苦労と“元ヤン”伝説の真相
三原じゅん子さんの最終学歴は、明治大学付属中野高等学校(定時制)中退です。
芸能活動との両立が難しくなり、学業を途中で断念していますが、その背景には並々ならぬ努力と苦労がありました。
小学校時代:芸能活動との両立
三原じゅん子さんは、**淑徳小学校(東京都)**に在学中から芸能活動を始めていました。
子役としてテレビやCMに出演し、すでに業界でも注目される存在に。
家族や学校の理解もあり、学業と仕事の両立を順調にこなしていたといいます。
中学校時代:転校といじめの経験
中学は当初、十文字中学校に入学しましたが、芸能活動が増えたことで板橋区立志村第一中学校へ転校。
しかし、芸能人であることへの嫉妬や偏見から、いじめを受けた時期もあったそうです。
教科書を切られたり、階段から突き落とされたりするような直接的ないじめも経験。
「ナメられたくない」という思いから、あえてヤンキー風の服装や態度で自分を守るようになりました。
この頃の“強気な姿勢”が後に「元ヤン伝説」として語られるきっかけになりましたが、実際には自分を守るための防衛手段だったと本人は語っています。
高校時代:芸能活動を優先して中退
高校は明治大学付属中野高校・定時制に進学。
しかし、ドラマ『3年B組金八先生』の大ヒットと同時に芸能活動が急増し、わずか2日で中退せざるを得ませんでした。
当時は歌手としてもヒット曲を連発しており、仕事を優先する形で学業を離れています。
三原じゅん子の経歴|芸能界から政治の世界へ
三原じゅん子さんの経歴は、芸能界からレーシングドライバー、そして政治家へと、まさに異色の道を歩んできました。
そのどの分野でも結果を残している点が、彼女の魅力のひとつです。
芸能活動・アイドル時代
三原じゅん子さんは1964年、東京都板橋区に生まれました。
1972年に劇団フジへ入団し、子役として芸能活動をスタート。
1979年のドラマ『燃えろアタック』や『3年B組金八先生』で注目を集め、一躍トップ女優に。
特に『金八先生』で演じたツッパリ少女の役は社会現象となり、世代を超えて記憶に残る名演となりました。
1980年には「セクシーナイト」で歌手デビューし、アイドル歌手としても人気を確立。
1982年にはNHK紅白歌合戦にも初出場を果たします。
演技・歌ともに成功を収め、まさに80年代を代表するマルチタレントとして活躍しました。
レーサー・バンド活動
芸能活動の傍ら、1984年にはロックバンド「JUNKO」を結成し、ハードロック歌手としても活動。
1987年には国際B級ライセンスを取得し、女性レーシングドライバーとしてモータースポーツの世界へ。
その後、ツーリングカーやGT選手権などでレースに参戦し、後には監督も務めました。
芸能人としてだけでなく、“挑戦を恐れない女性”としての生き方が注目されるようになります。
闘病と社会活動
2008年には子宮頸がんを患い、子宮摘出という大きな手術を経験。
この闘病をきっかけに、医療や福祉、がん予防の重要性を広く発信するようになります。
芸能人としての華やかな表舞台だけでなく、「命と向き合った経験」が後の政治活動の原点となりました。
政治家への転身
2010年、三原じゅん子さんは自民党比例代表で参議院議員に初当選。
以降、厚生労働副大臣・女性局長・厚生労働委員長など、数々の要職を歴任しています。
がん対策、女性活躍推進、子ども・家庭政策などに力を入れ、福祉やジェンダーの分野でも積極的に発言。
そして2024年、石破茂内閣で「こども政策担当大臣」として初入閣を果たしました。
三原じゅん子の結婚歴|3度の結婚と人生の転機
三原じゅん子さんはこれまでに3回の結婚を経験しています。
お相手はいずれも異なる業界の男性で、いずれの結婚も三原さんの人生や価値観に大きな影響を与えました。
ここでは、それぞれの結婚と離婚、そして現在の夫との関係について紹介します。
【1人目の夫】松永雅博さん(レーシングドライバー)
三原じゅん子さんがレース界に挑戦した1987年、師匠的な存在だったのがレーシングドライバーの松永雅博さんでした。
レースを通じて親しくなり、1990年に結婚。
当初は公私ともに充実した生活を送っていましたが、松永さんの酒癖や生活態度の違い、さらに三原さんの流産などが重なり、関係が次第に悪化。
1999年5月に離婚となりました。
離婚時には三原さんが慰謝料1000万円を支払ったと報じられており、精神的にも大きな節目となったようです。
【2人目の夫】コアラさん(お笑い芸人)
2人目の結婚相手は、お笑い芸人のコアラさん(現在の芸名:ハッピハッピー。)。
ローカル番組での共演をきっかけに交際し、前回の離婚からわずか半年後の1999年11月にスピード再婚しました。
三原さんが成功した芸能人、コアラさんが売れない芸人ということで「格差婚」とも言われましたが、当初は仲の良い夫婦として知られていました。
しかし、後にコアラさんの浮気が発覚し、2007年10月に離婚。
離婚後、三原さんは約9年間、シングルとして活動に専念していました。
【3人目の夫】中根雄也さん(元秘書・政治家)
現在の夫は、中根雄也(なかね ゆうや)さん。
自民党の政治家であり、三原さんの元秘書でもあります。
出会いは選挙活動中で、当初は三原さんのスタッフとしてサポートしていた中根さんと意気投合。
交際わずか2か月でのスピード婚となり、2016年10月に結婚しました。
当時、三原さんが52歳・中根さんが28歳と年の差24歳婚としても話題に。
披露宴には政治家や支援者約500人が出席し、華やかに執り行われました。
現在もお互いの政治活動を支え合い、良好な夫婦関係を築いています。
最近の活動と現在の姿(2025年最新)
三原じゅん子さんは、2025年10月まで石破内閣でこども政策担当大臣を務めました。
在任中は、児童虐待防止や孤独・孤立対策、就職氷河期世代の支援など、社会的弱者に寄り添う政策を推進。
特に「こどもまんなか社会フェスタ2025」を初開催し、G7各国との政策交流を主導するなど、
子どもや家庭を取り巻く問題に積極的に取り組みました。
また、SNSや講演活動では「現場の声を聞く政治」を掲げ、母親世代・シングルマザー層からの共感を集めています。
2025年10月、石破内閣の総辞職に伴い大臣職を退任。
退任式では、職員に向けて「ワークライフバランスの大切さを忘れないで」とメッセージを送り、
人間らしい働き方を重視する姿勢を示しました。
会見対応などをめぐり世間の注目を集めることもありましたが、現在も自民党参議院議員として活動を継続しており、こども政策や社会福祉を中心とした発信やイベント登壇を続けています。
近年の三原さんは、政治家としての実務に加え、社会課題を自らの言葉で伝える“発信型議員”として新たなステージに立っているといえます。
まとめ
三原じゅん子さんは、幼少期の苦労や家庭環境の逆境を乗り越え、芸能界、モータースポーツ、政治と多方面で活躍してきました。
母親の強さを見て育った経験は、彼女の人生観や政策にも深く根づいており、「誰もがチャンスを持てる社会を」という信念の原点となっています。
2025年現在は、石破内閣退任後も自民党参議院議員として活動を継続し、こども政策や社会福祉の発信、イベント登壇など、社会課題への取り組みを続けています。
芸能界で培った発信力と、政治家としての現場感覚を併せ持つ三原さん。
その芯の強さと行動力は、社会的弱者や次世代を支える政策に活かされ、多くの人々に共感と希望を与え続けています。
